「言の葉の庭」は、雨と万葉集の和歌がキーとなっている物語です。
今回は、新海誠監督のインタビューも含め、雨が重要な役割を果たした意味や、雨によって表現された描写対象などについてまとめたいと思います。
また、雨の万葉集の短歌についても解説します。
「天気の子」の雨に繋がるヒントが得られるかもしれません。
「言の葉の庭」の雨の日のシーン
「言の葉の庭」のキーとなっているのは、1つは「雨」です。
雨なしでは「言の葉の庭」は成立しません。
主人公で高校生のタカオは、雨が降ると学校には行かず、教師であるユキノと雨の中で出会うことになります。
新海誠監督の特徴として、現実の世界をとても美しくアニメーションに表現するというものがありますが、「言の葉の庭」では、「雨」が見事に美しく描写されています。
「言の葉の庭」を見て、雨が好きになったという方もいるくらいです。
「雨やだなぁ…」っていう梅雨の時期に観る映画。
— 町田達彦 (@match_tatsu) 2019年7月11日
あら不思議、雨の光景が少しだけ、優しく美しく見えます。
新海誠監督『言の葉の庭 』 pic.twitter.com/Nh9M8JU2qQ
おはようございます。#新海誠 #言の葉の庭
— GIGA (@tknmtknm1) 2019年7月10日
今日深夜放送です❗️
雨の情景描写は実写と見紛う最高の映像クオリティ❗️#天気の子 新作でも蘇るか☺️‼️ pic.twitter.com/6hVZHtKZhP
新海誠監督は、雨が1つのキャラクターというぐらい重要な役割を持っていたと言い、雨に対してどこまでこだわったのかを語っています。
雨は、1つのキャラクターというぐらい重要な位置でしたから、雨の降り方、雨の種類みたいなものは描き分けていました。
強い雨、弱い雨、土砂降り、天気雨、それぞれの雨が土に落ちた時、水たまりに落ちた時、アスファルトに落ち時の表現は、今回雨が1つのテーマだからこそ、そこまで雨にリソースを割けたんだと思います。
新海誠監督
あと、水というのは、すごく絵を表現するにあたって魅力的な題材なんです。無色透明で見る角度によって、まるで表情が変わりますよね。
空を反射して、鏡のように見える瞬間もあれば、全く何も写さず、下の地面がそのまま見えてしまうような角度もあるし、こう表現したいというアイデアさえあれば、どこまでも写実的に描くことができるし、水たまりって、こうだよねとか、濡れているものはこうだよねという共感を得やすい題材だと思うんですよ。
水たまりの見え方や雨に濡れた物の見え方は、みんな分かっているようでいて、なんとなくしか把握していないけれどアニメーションの中で具体的にディティールを持って表現してあげると「あ、そうだ!こうだったんだ!」という驚きを与えることができます。
それは実写でただ撮っても「ふーん」で流れてしまうことだけど、アニメーションで表現するからこそのインパクトですよね。
私たち見る側に「雨がすごい」と思わせる為に、様々な努力をされていたのでした。
「言の葉の庭」の雨の役割と、雨が描写・表現する意味
新海誠監督は、「言の葉の庭」の雨の役割や、雨が意味することについて、インタビューで語ってくれています。
雨の役割① 避難場所
タカオとユキノが出会う場所は、雨を避けた場所、つまり「雨宿りできる場所」である訳ですが、雨宿りできる場所というのは、つまり、「避難場所」ということです。
文字通り、タカオとユキノは雨から避難できる場所で、雨宿りをしながら出会うのですが、この雨宿りは、「人生からの避難場所」という意味もありました。
新海誠監督は、インタビューで以下のように語っています。
今回は、実際の2つの意味で雨宿りの話にしようと思いました。
1つは、雨宿りのために2人の男女が偶然出会うという話。
もう1つは、象徴的な意味での雨宿りで、彼らにとってはあの数ヶ月間が一時避難のようなもので、人生の中に雨が降っている時期に2人が出会い雨宿りしている話でもあると思います。
新海誠監督
2重の意味で雨宿りの話ですので、実際に描く雨も2人の関係性を象徴するようなビジュアルとして、少しずつ変えながら描いています。
つまり、新海誠監督は、雨宿りをしている2人が、雨から身を守っているだけではなく、社会から身を守っているということを表現したかったのだそうです。
タカオは、雨を口実に「学校に毎日行くのが当たり前」という社会から、「自分が好きなことをしたい」という自分を守っています。
そして、ユキノは、雨宿りをすると同時に、「教師という社会的立場でイジメにあっている」という社会から自分を守っているのです。
雨は、辛い社会や、辛い感情を描写するとても大事な役割を担っていたのです。
雨の役割② 距離感
主人公のタカオは高校生で、ユキノは高校の教師です。
タカオは学校での授業にほとんど興味が無いので、ユキノが自分の高校の先生だとは気が付きませんでしたが、ユキノは「生徒と教師」という立場を一応わきまえていました。
年齢的にも心理的にも距離がある2人のお話ですから、常に間に何かが挟まっているという絵にしたかったんですね。
新海誠監督
だから、2人の間には雨や葉っぱや枝といった、そういう2人の間を隔てるものをアニメでいうブック(本のBookと同じ綴り)っていうんですけど、ブックをキャラクターの間に挟んでます。
新海監督は、雨を使うことで、生徒のタカオと教師のユキノの距離感を表現していたのでした。
例えば、15歳のタカオと27歳というユキノの年齢という距離感。
そして、「15歳は子供」と扱われるタカオと、タカオにとって未知の世界な「大人」のユキノという距離感。
このような2人の間にある距離感を、新海誠監督は雨を使って描写したのだそうです。
「言の葉の庭」の雨の万葉集の和歌の意味
「言の葉の庭」と言えば、登場する万葉集の和歌も、「雨」と同じくらい重要な要素です。
ユキノは、高校の古典の先生なので、雨を詠った和歌を劇中に登場させます。
雨を詠った古典短歌で、ユキノが伝えられない思いを詠っているのです。
昔の人は、和歌を詠い、和歌で返すことで会話をしていました。
ロマンチックですね。
ユキノは、彼女のタカオへの想いを、柿本人麻呂の短歌に乗せて詠いました。
「雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
「雷が鳴って、雨が降ってくれれば、あなたを私の元へ留めておくことができるのに」
という意味です。
ユキノがタカオに会えるチャンスは、雨が降ったら学校に行かないと決めているタカオが、雨のために学校をサボる時だけなのです。
そんなユキノの短歌に対して、タカオは詠い返しています。
「雷神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」
意味は、「雨なんか降らなくても、君が望むのならば、僕はここに留まるよ」です。
この雨の和歌を通して、ユキノとタカオの気持ちは通じ合っていることが分かったのでした。
まとめ
「言の葉の庭」では、非常に重要な役割を果たしていた「雨」ですが、新海誠監督の新作「天気の子」にも「雨」が登場します。
今回も、おそらく、雨は重要な意味を持つ1つのキャラクターとして描かれているのだと思います。
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