映画イージーライダーは、訳が分からない映画として有名です。
ですが、同時に映画業界を激震させたほど斬新で人々の記憶に強烈に残ったアメリカンニューシネマの代表作でもあります。
映画の意味が分からないと、つまらないし、衝撃的な結末を見ても「何が何で?」と疑問ばかりが出てきますが、映画が新しい時代の幕開けを表現していたことを理解すると映画を楽しめます。
今回は、イージーライダーが何を意味する映画だったのかを深掘りしようと思います。
イージーライダーの映画内容
コカインというドラッグの密輸で大金持ちになった2人、ビリーとワイアットという若者たちが、アメリカの大自然の中をバイクで爽快に走りながら旅するお話です。
無許可のパレードに参加していたところを捕まえられ、彼らは留置所に入れられますが、そこで出会ったジョージとさらに旅を続けます。
自由に旅するビリーとワイアットでしたが、最後には撃たれて死んでしまいます。
イージーライダーが意味不明でよく分からない
イージーライダーは、 当時新しいタイプの映画でした。
例えば、スタジオで撮影するのが基本だった常識を破り、実際に存在しているロケーションばかりで撮影をしたり、それまでの映画の常識を壊した新しい時代の映画の1つだったと評価されています。
ですが、イージーライダーという「自由」がテーマの映画そのものが自由な感じで作られているので、分かりにくいという評価も受けています。
映画の中にそもそも物語がないなど、ポイントが分かりにくいところがあるのです。
また、映画のラストで主人公と言える2人があっけなく死んでしまうところがあるなど、ストーリーがサラリと進んで行きます。
それゆえ、映画全体が、「ありそうなアメリカの風景や情景をただ次々と映してみました!」みたいな、とある誰かの日記が映画になったような、薄っぺらいとさえ感じてしまう仕上がりになっています。
なので、「で、結局何が言いたかったの?」と訳が分からないような、「自由になるって良いことではないの?」と腑に落ちないような、納得できない感じが「つまらない映画」という評価に繋がっているようです。
ですが、この映画、実はとても深い映画です。
今までの映画の常識を破り、訳が分からない新しいスタイルの映画であったにもかかわらず、当時の若者(特にUSA)には、共感する人が多かったのです。
この映画はUSAの若者にとって、生き方や在り方について多くを感じる映画となりました。
イージーライダーという映画を理解するには、当時どんな世界が背景にあったのかを知ることが大切です。
(注)ちなみに、映画の後半でバラバラの画像が映し出されたり、人々が泣いたり笑ったり服を脱いだりしているシーンで、何が何だか分からないというのは、彼らがドラッグで何が何だか分からなくなっている状態をそのままに映しているから、何が何だか分からない映像なのです。
イージーライダーがつまらない理由を解説
イージーライダーがつまらない理由は、イージーライダーが何をテーマとしているのかが読み取れないからです。
つまり、イージーライダーを理解するには、映画のテーマを理解するだけでいいのです。
映画イージーライダーのテーマは、「時代の変わり目をありのままに映す」というものでした。
映画が流行った当時、USAでは何が起きていたのか?
映画イージーライダーが公開されたのは、1969年です。
映画を見ていると分かりますが、イージーライダーには「ヒッピー」な人々や情景が描かれています。
ヒッピーとは、カウンターカルチャーとムーブメントのことで、1960年代後半にUSAに現れた「それまでの考え方に囚われない自由な思想と生活をする人々」の総称です。
映画イージーライダーは、このヒッピーを基盤とした映画だったのです。
主人公の「ワイアット」がもうすでに「ヒッピー」の象徴だったのです。
つまり、「映画の分からなさ」は「ヒッピーの分からなさ」なのです。
ヒッピーを理解すると、イージーライダーの意味がよく分かります。
当時、ヒッピーな若者の在り方や生き方は大流行し、世界が変化し始めました。
イージーライダーという映画は新しい時代の幕開けを表現した映画だったのです。
イージーライダーが見せたヒッピーとは?
イージーライダーは、ヒッピー文化をよく表現した映画ですが、ヒッピーとはつまり、「自由」そのものです。
ヒッピーな人々の合言葉は「Love & Peace」ですが、この人たちは本当に、在り方が自由です。
そして、まさに映画イージーライダーのように、「何が言いたいのか分からないような在り方」を理想としているのです。
「何が言いたいのか分からないような在り方」とは、「何でもいい・してもしなくてもいい・ハッピーで自由ならそれだけでいい」というような在り方です。
映画イージーライダーは、そんなヒッピー文化を表現した映画だったので、映画の仕上がりが自由で、よく分からないような、ポイントがないような感じなのです。
また、このヒッピーという若者を中心としたムーブメントは、新しい時代の幕開けを象徴するものでした。
私たちは、長い歴史を生きている中で、「時代の節目」というものを体験します。
例えば、日本でも、「昭和と平和」を比べると、明らかに特徴が異なる時代がありますね。
ヒッピームーブメントも、時代の変わり目を象徴するものでした。
実は、ヒッピーが出現した時代というのは、私たち人間の意識覚醒に関係していました。
私たち人間には「意識」というものがあり、私たちは常に意識が覚醒していくプロセスを今体験しています。
分かりやすいお話をするならば、石器時代の人間は、少し動物的な要素を多く含んでいますが、これは今の時代の人間よりも意識レベルが低かったからなのです。
例えば、意識レベルが高い人というのは、サイキック能力を使うことができますが、私たち人間はみな、この意識覚醒を長い年月をかけて体験しているのです。
これは、スピリチュアルな世界(魂の世界)を学ぶと理解できるのですが、細かい説明はここでは割愛するとして、ヒッピーが出現した時代というのは、私たちの意識覚醒の大きなステップの一時期だったのです。
つまり、若者たちを筆頭に世界が目覚めていく始まりだったのです。
このようなヒッピームーブメントの中心となったヒッピーな若者たちが出現した時代には、スピリチュアル用語で「インディゴチルドレン」と呼ばれる子供たちが生まれてきています。
映画イージーライダーは、新しい世界を担うインディゴチルドレンが生まれ始めた時代の映画だったのです。
インディゴチルドレンが社会に新しく持ち出すヒッピー精神、それが「自由」であり、当時の若者たちはいち早くその時代の変化に気がついていたのです。
「自由」とは何か?
映画イージーライダーを見ていると、「自由とは何なのか?」「自由であることは難しいのか?」「自由になることは良いことなのか?悪いことなのか?」などのような疑問が浮かび上がります。
映画のストーリーとして、「自由を手にした若者が殺される」というものがあるので、「自由になったところで良いことはないのではないか?」などと考えさせられる映画でもありますが、イージーライダーは、当時の社会的風景をそのまま描写していた映画です。
なので、イージーライダーを「こういう文化が古い時代にはあって、新しい文化はこうやって被さっていったのだな」というぐらい俯瞰で見ると、世界で何が起こっているのかが見え、映画のポイントが分かるでしょう。
あれから50年ほど経った今、ヒッピーのような風貌をした人々は、極端に少なくなりました。
彼らはいなくなってしまったのでしょうか?
それとも、「自由」を掲げることを諦めてしまったのでしょうか?
正解は、彼らは姿を変えただけです。
ヒッピー精神は、今も根強く人々の中にあります。
ただ、外からでは区別することは難しいかもしれません。
ですが、ヒッピー精神「Love & Peace」を掲げている人は、今でもたくさんいます。
あの時よりもむしろ増えてきていると思います。
映画の中でジョージはこんなことを言っています。
「政府は宇宙人がいることは知っているし、隠している。この世界にはリーダーがいる。」と言っています。
ヒッピーとインディゴチルドレンは今、古い時代を引っ張って来たリーダーたちから人類の自由を取り戻そうと、あちこちで活躍中です。
映画イージーライダーは、リーダーにコントロールされていた人類が自由を取り戻す時代の幕開けを象徴した映画です。
今世界が変わっていくのは、ヒッピー精神のおかげですが、イージーライダーはそんな世界の変わり目をありのままに撮った映画なのです。
イージーライダーの結末の解釈について解説
イージーライダーの結末は、「自由」を探求する2人の若者が死を迎えるというラストです。
主人公がなぜ殺されなければならなかったのか、納得がいかないという声もありますが、これこそまさに、映画イージーライダーが見せたかった「ありのまま」の社会観なのです。
主人公たちが殺されたことには、確かに大きな意味はないと思います。
ただ、映画のテーマとして、自由に開放されようとする若者が、人類の自由をコントロールしているリーダーに目を付けられるという点を表現するには、大いに意味がありました。
この映画の主人公であるワイアットは、ヒッピー精神の象徴でした。
ヒッピー精神を広めようと「愛と自由」をモットーに掲げた有名人の殺害事件が、この映画が見せたかったテーマ「時代が変わる時」を物語っています。
ジョン・レノンの死
有名なビートルズのジョン・レノンは、ヒッピーから絶大な人気を得ていました。
ジョン・レノン本人がヒッピーであったというくくりはありませんが、「愛と平和と自由」を求めて社会に背を向ける姿は、ヒッピーに共通するものがありました。
ジョン・レノンは、ファンを装った1人に射殺されて亡くなりましたが、この事件には陰謀説があり、ジョン・レノンを恐れていた「フリーメイソン」と「CIA」が黒幕だったのではないかという話もあります。
実際のところは明るみには出ていませんが、「自由を掲げる者が社会に脅かされる」という面が、イージーライダーと共通していると私は思いました。
イージーライダーが公開されたのは1969年、ジョン・レノンが殺害されたのも1980年と、同じ時代の変わり目頃にあります。
何が言いたいのかというと、ヒッピーとは、今までの常識的な考えや社会体制を否定し、みんなで自由に仲良く幸せになろうとすることを目的とした文化です。
しかし、人類に、もしくは、一般人に自由を取り戻されては困る人々がどこかにいたということなのではないでしょうか?
映画イージーライダーの結末は、そんな実世界が存在していることをありのままに表現した作品だったのだと私は思います。
まとめ
映画イージーライダーは、1960年代後半にアメリカに起こっていたヒッピー文化が炸裂した時代=世界が分かっていく時代の変わり目をありのままに撮った映画でした。
ヒッピー文化の「あまりポイントがない感じ」をそのまま表現していたり、具体的な注目点を作らなかった為、よく分からなくてつまらないと感じる方が多かった作品ですが、当時世界に何が起こっていたのかを理解すると、映画の内容に全てしっくりきます。